鶴岡亮の今日はこれ観るか?あれやるか?  第2回 注:ネタバレ有り 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とは何だったのか?

 

【文・鶴岡亮】

鶴岡亮Twitter:https://twitter.com/ryoutsuruoka

 

 

注意:本コラムには『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の内容に関するネタバレがあります。本編観賞後に閲覧する事を推奨します。

 

2007年から始まった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズ。このシリーズは全4作品によって構成され、2007年の「序」、2009年の「破」、2012年の「Q」、そして2021年の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開をもって、長きに渡り続いた物語がようやく完結を迎えた。本コラムではこのシリーズ最終作である本作が、観客に何を訴えたかったのかについて筆者なりの解釈を書いていきたい。

 

 

「序」では、旧TV版、劇場版のシンジ個人のドラマを中核に絞った物語とは違った、周囲の描写や他者との関わり合いを基準にした物語が描かれた。続く「破」でもその要素が描かれ続け、「Q」ではそのシンジが築き上げた他者との関わり合いが完膚なきまでに破壊される物語が描かれた。この流れを観るに、新劇場版シリーズに於いて「他者との関わり合い」は非常に物語の重要な軸となっているのが解るだろう。そして、本作「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でもその要素は健在で、本作ではQで喪った他者との関わり合いを回復する物語が描かれている。

 

この物語の序盤で重要になってくるのは、シンジが起こしたニアサードインパクトの生存者達の集落「第三村」で出会う、大人になったトウジ、ケンスケ、ヒカリのかつての友人達だ。そのかつての友人達が変貌した様を観た時に受ける印象は、同窓会で久しぶりにあった友人達が成長し、中には家庭を持つ人も居て「皆、大人になったんだな」と思わされる感覚に近い。それに対して、シンジは子供のままで、友人達とは違った大人としての成長を成し遂げられなかった人間として描かれている。つまりこれは、年齢的には同じ筈のシンジと友人達の間には、「大人になれなかった自分」と「大人になった友人達」という成長的格差が存在するという事を描いているのだ。

 

そして、再開を果たした後のシンジは、友人達が外で働く中、自身は外界との繋がりを断ち、孤独にゴロゴロしながら悩みに耽る日々…。このシンジの描写は、現代の孤独なオタクの象徴である「子供部屋オジサン」と呼ばれる人々をモデルに描かれているように思える。普通は大人になれば社会で働くなどして知見と交友を深めて成長するという概念が一般的ではあるが、それが出来ない子供部屋オジサンが現実世界に沢山いるし、当然本作を観に来た観客の中にもそういう人達が居る筈だ。つまる所、このシーケンスは「働いたり友人を作ったりしろ!さもなければ大人として成長できないぞ!」というストレートなメッセージを、子供部屋オジサンに代表される「成長出来なかった大人達」にぶつけているのである。

 

そして、シンジと対の存在となるのが綾波レイ(仮称)である。彼女はネルフを離れては生きていけない存在、限られた短い人生の中でしか生きる事が出来ないキャラクターだ。にも関わらず積極的に村人達と交流し、仕事とそれに伴う村人との交友関係を通して成長していく。それに加え、塞ぎ込んだシンジに対してさえも交流しようとする「大人になろうとする存在」として描かれている為、人生経験がシンジよりも浅い筈の綾波(仮称)にすら大人としての成長を先に越されたシンジの惨めさを際立たせている。しかし、彼自身も次第に友人達との交流や労働を通して成長し、綾波(仮称)が限りなく短い生涯の中でも成長する事を辞めなかった「生き様と死」を直視し、シンジは明確に「大人になろうとする」という決心に辿るのだ。自分を受け入れてくれる「友人」、そして大人へと「成長する意志」という二大要素によってシンジは成人への道を駆け出して行く。

そして彼が真の大人になるには父・ゲンドウと対峙しなければならない。シンジは「真の大人」になるべく、父・ゲンドウと対峙する事になるのだが、そこで明かされたゲンドウの正体は「孤独なオヤジ」の姿だった。幼少時代から他者との関わりを拒み続け、知識の泉である本から情報を摂取し、唯一の愉悦であるピアノを弾く事に没頭する人生…。その姿は友人不在で、映画、小説、漫画、ゲームなどに没頭する孤独なオタクのようで、ここにも現実世界の「大人になれなかったオタク達」への批評性が表れている。

 

そして、この解き明かされたゲンドウの真実によって、シンジとゲンドウは同じ存在、即ち二人とも孤独なオタクの象徴だったという事がわかるだろう。しかし、シンジは前述の「友人」との関わり合いと、「大人になるという意志」を獲得しているためにゲンドウと比べて遥かに成長している。そして、この孤独の牢獄に閉じ込められたゲンドウを解放するのは紛れもなく成長したシンジだ。自分の意志で父の前に現れたシンジを見て、ゲンドウは初めて「親子の対話」を実践する事になる。その対話によって初めて息子に向き合うという「大人としての務め」というアビリティを獲得していき、ゲンドウ自身も成長していく。それ故に出てきた言葉が「大人になったなシンジ…」だ。「親子二代に渡る孤独の連鎖」に対して「成長が成長を呼ぶポジティブな連鎖」によってそれを癒す、これこそが碇親子の物語だったのだ。

 

この展開は「かつて孤独を感じていたが成長する事が出来た人間」が、「現在進行形で孤独な人間」を解き解して「成長する意志」を与えるというシーケンスなのだが、この部分にこそ庵野監督が現代の世相に語りかけたい物語のコアが内包されていると思われる。

 

現代の世相に於いてアニメに纏わる「孤独の牢獄に捕らわれた大人の事件」として思い出されるのは、「京都アニメーション放火殺人事件」だろう。この事件は2019年にアニメ制作会社「京都アニメーション・第一スタジオ」に青葉真司容疑者が侵入。ガソリンをばら撒いた後に放火し、容疑者を含む70人の死傷者を出した事件だ。その容疑者のルーツを辿ると見えてくるのは、親族、友人との関わり合いがない孤独な人生と、オタク趣味の世界にしか生きる目的がない男の姿だった。まさにその姿は本作のゲンドウそのモノであり、他にも世に存在する無数の孤独なオタク達の姿にも重なる事だろう。

 

アニメ監督である庵野監督自身もこの事件には心を痛めただろうし、色々と考えさせられる事があったはずだ。それ故に、本作ではシンジとゲンドウという関係性を通して、「孤独の苦しみ」から脱出する為には「周囲との関係性」と大人になるという「成長の意志」を築いていく事が大切という、テーマを語らなければならないという使命感があったのではないだろうか。

 

それに庵野監督自身もTV版、旧劇場版、それ以降の人生でも本人の発言や声明文から察するに精神的孤独感に打ちひしがれ、苦労してきた人物だ。しかし、そんな監督の傷ついた心を救ってくれたのは、友人達や愛する妻の存在だったと本人も語っているし、その姿は本作で成長を果たしたシンジそのものだ。故に、今回のシンジとゲンドウの関係性のような「成長が成長を呼ぶポジティブな連鎖」を観客に送り届けたい、「自分も精神的に孤独だったけど、周囲との関わり合いと成長の意志があれば生きていけるよ!」という力強いメッセージを観客に届けたかったのではないだろうか?

 

旧劇場からシンエヴァに至るまでの庵野監督自身が経験した「周囲との関係性」、そして「自身の成長」の経験を踏襲し、世の中の孤独に苦しむオタク達に提言を送った作品。それが「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の物語だったのではないだろうか?


 

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