『300<スリーハンドレッド>~帝国の進撃~』ブルーレイ&DVD発売記念特別コラム 文:高橋ヨシキ

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コミックと映画の垣根など叩き壊してしまえ! ここはスパルタだ!
文:高橋ヨシキ

コミックを原作とする映画がボックス・オフィスの上位を独占するようになって久しいが、「コミック表現の映像化」という意味において本作を超える作品はついぞ現れていない。『300<スリーハンドレッド>』はそれほどまでに革新的な映画であり、映画、テレビを問わずその後の映像表現に与えた影響も計り知れない(とくにサム・ライミ製作のテレビドラマ「スパルタカス」シリーズは『300<スリーハンドレッド>』の直接の申し子だと言ってよい)。

フランク・ミラーのコミックを映画化するにあたって、監督ザック・スナイダーはコミック自体を絵コンテとして採用した。マンガそのままのマッチョ体型を創り上げるために、主要なキャストは8 週間に渡ってハードコアなトレーニングを強いられた。コミックの世界観を完全に再現するため、ほぼすべてのカットに特殊効果(VFX)が加えられ、その作業は一年以上に及んだ(『300<スリーハンドレッド>』の全カット数は1523 カットで、そのうち1300 カット以上がVFX 処理されている)。レオニダス王が前進しながら敵を次々と倒していく長回しのカットは本作の代名詞ともいえるものだが、この場面は素早いズーム・イン・とズーム・バックを繰り返すことで1 カットの中に「コミックのコマ割り」を表現してみせた。戦いの直前のレオニダス王のアップでは、CG を駆使して片目が大きくーー現実にはあり得ないほどーーデフォルメされた。血しぶきはひとつひとつが「紙の上にインクを飛び散らせたものに見えるよう」描き込まれた。コミック独自の表現を映像に落としこむために、『300<スリーハンドレッド>』には文字通りありとあらゆるテクニックが投入された。

こうして完成した『300<スリーハンドレッド>』は極めてオリジナルな作品となった。『300<スリーハンドレッド>』は脈動するイラストレーションのようであり、どこまでも絵画=コミックに接近しつつ、しかしまぎれもなく「実写映画」である、という離れ業をやってのけたのだ。「コミックを忠実に映像に置き換える」というとあたかも制約が多いように感じられるかもしれないが、逆説的に『300<スリーハンドレッド>』は「表現はここまで自由になれる」ということを示したように思われる。役者の顔をコミックに合わせて自由に変形させてもいい。人間のサイズだって自由に変えていいし、地上のシーンを水中で撮影したっていい(巫女が踊る場面は巨大な水槽の中で撮影された)。歴史上の事件を扱っているといって「時代考証」などにとらわれる必要はない。「映画」あるいは「表現」は好き放題やっていいんだ、というごく当たり前の事実に改めて気づかせてくれる。そういった意味で、物理法則を無視しているだとか、あるいは史実と違うといった批判はすべて的外れだ(もしくはスペースオペラに対して「宇宙では音なんかしないんだよ」と言うような野暮の骨頂と同類である)。

『300<スリーハンドレッド>』はーー原作と同じくーー野蛮で血生臭く凶暴なファンタジーだが、いみじくも劇中でレオニダス王が「狂っているだと? ここはスパルタだ!」と叫んだのと同じように、「これが『300<スリーハンドレッド>』だ!映画とコミックの垣根など知ったことか!」と叫んでいたのだ。

いっぽう続編『300<スリーハンドレッド>~帝国の進撃~』は律儀に『300<スリーハンドレッド>』の映像スタイルを引き継ぎつつ、前作と真っ向から対立する世界観を提示した野心作である。

『300<スリーハンドレッド>~帝国の進撃~』は多くの点で前作と対照的だ。

前作の戦いの舞台は陸地で、おまけに一本道。必然的に戦い方は直線的なものとなっていた。これに対して今回の『帝国の進撃』で描かれるのは海戦であり、海を埋め尽くす船団の運動は曲線的なものである。また前作における戦闘シーンが陽光降り注ぐ日中のものであったのに対し、『帝国の進撃』では銀色に輝く月明かりの下で戦いが繰り広げられた。こうした対比は枚挙にいとまがないが、そこには単なるビジュアル上の差異化という以上の意味が込められており、それは『帝国の進撃』の実質的な主人公がエヴァ・グリーン演じるアルテミシアであることと密接に結びついている。

前作『300<スリーハンドレッド>』は過剰ともいえるまでにマチズモを称揚した作品である。男性・性を過剰なまでに押し出した『300』は単なる筋肉賛歌を通り越して、「ファシズムを賛美するものとすらいえる」(映画評論家ロジャー・エバートの言)と批判されるほどであった。

これに対し、アルテミシアを軸として展開する『帝国の進撃』はそのすべてが女性・性の原理に支配されている。

陸地に対する海、直線に対する曲線、太陽に対する月、という対比は、伝統的な「男性性」と「女性性」の象徴をそれぞれ反映するものである。この構造は『帝国の進撃』において徹底されており、押しては引き押しては引き、という文字通りピストン運動的な戦いを展開したレオニダス王の軍勢とまったく逆に、アルテミシアはひらりひらりとアクロバティックに曲線的な剣の舞を披露するのだ。さらに『帝国の進撃』ではアルテミシアがクセルクセスを実質上「産み出した」象徴的な母親であることも描かれる。つまり象徴的な意味において『帝国の進撃』はことごとく『300』の逆を行く、一種の「女性映画」となっているわけだが、ここに現代社会の反映を見ることはたやすい。ファンタジーとしての古代を舞台に失われゆくマチズモをノスタルジアたっぷりに描出した『300』の続編が、そのマチズモに対する決定的な批判となっている事実には驚かされるーーというか、そこにアメリカ社会の成熟を見ることも可能であろう。そう考えるとアルテミシアがレイプの被害者であることも実に示唆的で、つまり旧態依然とした男性原理は、その最大にして最も卑劣な武器をもってしても女性を屈服させることができなくなった……そう『帝国の進撃』は主張する。

しかしそのアルテミシアの「強さ」は、男性優位社会を通り越して「男性性」自体へと向かう怨嗟の感情に根ざすものであったがゆえに、最終的に敗北することになる。前作では「レオニダス王の気丈な妻」という役どころしか与えられていなかったゴルゴ王妃がギリシアの戦士たちを率いてさっそうと登場したとき、アルテミシアの命運は尽きた。「男」であれば味方の兵士であっても敵、あるいは駒としか見ることができなかったアルテミシアとは反対に、ゴルゴ王
妃は亡き夫への限りない愛情をその武器としていたからだ。ゴルゴ王妃が率いる軍勢も『300』のスパルタ軍とは様相を異にするものだ。そこには、男性優位主義(『300』)へのバックラッシュ(アルテミシア)を経て、社会的な性差を乗り越えたーーより成熟した社会への希望が見え隠れするのである。

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発売・販売元:ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
・2014 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND LEGENDARY PICTURES FUNDING, LLC

【公式サイト】wwws.warnerbros.co.jp/300movie2/




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