【連載コラム】畑史進の「わしは人生最後に何をみる?」 第20回 『スター・ウォーズ』のEP7~9(いわゆるシークエル・トリロジー)は無かったことにしたい。そう言わしめる本当の原因は何?

 

 

【文・畑史進(編集長Twitter):https://twitter.com/hata_fuminobu

 

突発です。

ご無沙汰です。

お久しぶりのコラムです。ということで、昨日夜にゲームした後軽くSNSを眺めていたらタマタマ「『スター・ウォーズ エピソード8』を見た父が酒を呑みながら泣いていた」なる投稿を見かけたんでふと思った事を書き綴りますという流れ。

 

ここから先はまず他メディアのIGN JAPANに寄稿したものではあるけど、以下のリンクを見ておいてくれたほうが話を端折りやすいので呼んでいる前提で話を進めますよ。

 

ディズニー、ルーカスフィルム、スター・ウォーズ・ナード 遠い銀河のフォースを乱した三つ巴の戦い

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表題にある「『スター・ウォーズ』のEP7~9(いわゆるシークエル・トリロジー)は無かったことにしたい。そう言わしめる本当の原因は何?」の通り、理由を挙げるだけなら凄く簡単。「シークエル・トリロジー」そのものが要らんかった。ジョージ・ルーカス外した時点で興味なしというだけなのよ。だけど実際問題大金かけて『STAR WARS』の関連作品です、続きです、新作です。なんて言われたらファンは監視するような感じで観ざるをを得ないわけですよ。たちが悪いことに『スター・ウォーズ』っていうのは映画が軸になっているフランチャイズだから映画館で上映されたり、映像作品が作られたりするとそれが新しい正史だと言うことになってしまう(『ホリデースペシャル?』知らない子ですね)。

 

ここからはインディペンデント作品だった『スター・ウォーズ』シリーズが“自称熱心なファン”によって制作された「オフィシャル同人映画」によって潰された話について少し自分の見解を話していきたい。

 

 

最初に話すと『エピソード8 最後のジェダイ』はシークエル・トリロジーの中でもかなり気に入っている。

現在発売されているBlu-rayの特典映像を見れば分かるのだけど、あれは「入れるべきところを入れて(レイの第3の試練シーンやフィンとファズマの決闘前の告発)」「外すべきところを外す(フィンとローズのキスシーンや、ローズがフィンに暴行するシーンとか、フィンとローズのカジノ惑星での愛の逃避行シーンとか)」編集をちゃんとやっていればもっと評価されていたと思う。それを抜いてもあのルーク・スカイウォーカーの落ちぶれっぷりは自分の中でも納得行ったし、色々設定について言われているけど「ハイパースペースカミカゼ」は『スター・ウォーズ』のご法度をやってくれたので観ていて面白かった。

紹介したコラムにもあるけどライアン・ジョンソンは『スター・ウォーズ』という取り扱いSSS級のシリーズ作品を『トイ・ストーリー』のシドみたいに色々実験的に試していって、キャラクターの降板含めてぶち壊して、最後に『スター・ウォーズ』という遠い遥か彼方の銀河という舞台だけ残したのは良い判断だったと思う。むしろ『エピソード7 フォースの覚醒』でただのコピペ&同窓会をした挙げ句にハン・ソロを雑に殺して、ルークをあんな登場のさせ方をしてぶん投げたJ・J・エイブラムスをもっと責めるべきだった(同年公開の『ガールズ&パンツァー』の方が面白いって異常だぞ!あれなんかただ『1941』やりたかっただけじゃねぇか。面白かったです)。あの公開当時に『エピソード7』をボロクソに褒めまくった評論家は見る目無いなと思ったけどね。

 

そんな好きな『エピソード8』だけど、あれだけがすげー戦犯扱いされるのはおかしいと思うのでここではっきりと書いておく。

『スター・ウォーズ』という3部作で一つなる作品でやたら1作品をぶっ叩くのは筋違いだ。叩くのは『エピソード8』でブーイングを上げた奴らに日和ってコリン・トレボロウを急遽降板させたキャスリーン・ケネディとなんの見通しもなく『エピソード7』という作品と作ったゴミ拾いのJ・J・エイブラムスを批判するべき。

どういうことかというと、もうその通りで『エピソード8』公開後にはファンがこぞって大ブーイングの声を挙げて、果てはローズ役のケリー・マリー・トランを侮辱したり、ルーク・スカイウォーカーの扱いを否定したりと途中の作品であるにも関わらずやりたい放題言ったのをディズニー側、というよりJ・J・エイブラムスとキャスリーン・ケネディが真に受けて日和った。それで急遽『エピソード9』の脚本を見直すことに。

 

いや、見直すなよ!!押し通せよ3部作なんだから

 

当初の草案では、荒れ果てたコルサントやジェダイ聖堂が出てきたり、「ダース・ベイダー(幻影)VSカイロ・レン」とか結構胸熱な展開があったり、完全なるシスの暗黒卿となったカイロ・レンが霊体となったルークにつきまとわれたり説得されたりする。一方でレイはフォースが闇や光と様々に移ろうことに対しの疑念からジェダイの道から離れようとしたりするという流れからファースト・オーダーとレジスタンスの戦い、カイロ・レンとレイ、ルーク・スカイウォーカーの最後の戦いが幕を開け、戦いの最後にレイは自分の名前を知るという内容だったらしい。また、ローズもこの作品までには成長してレジスタンスのいち舞台を任されて引っ張っていくような成長を遂げる予定だったらしい。

 

この脚本草案が本物だったとすると(一応コリン・トレボロウがSNS上で反応している)、ルーク・スカイウォーカーの描写に関しては『エピソード8』で最後にぶちかましたフォースの大技「幻影飛ばし」を決めて闘った後に「また会おう」といってカイロ・レンにトラウマを植え付けて去ったことへの伏線回収になるし、ローズの成長も気になるところだった。これらをすべて捨ててまでヤサグレだったルークを一気に成人化させたり、ローズの出番を減らし、挙句の果てにファンに納得してもらうため(接待)の「レイの出自」を撮影中に悩んだ挙げ句にパルパティーンの孫娘にして、そのために第2デス・スターに妙なトレジャー要素加えた作品を作ることにむしろなんの意味があるんだい?と言いたいよおらは。

 

こっからは余談なんだけど、本来ジョージ・ルーカスの予定していたシークエル・トリロジーはミディクロリアンの真相に迫るという内容で、それまで常識とされていたフォースのダークサイド、ライトサイドの移り変わりはフォースの意思や、フォースの気まぐれ、気候的な変動ではなく、全てはミディクロリアンの意思によって左右されるのではないか、それをルークが研究し追求するという『ミクロの決死圏』みたいなお話になる予定だったらしい。これは『近年行われたジェームズ・キャメロンとの対談で明かされた。

 

なぁ、ミディクロリアン否定派だった(現在進行系の人も)そこのあんた。これの方が面白そうに思えないかね?

 

結局ルーカスはミディクロリアンの反応が芳しくないことから『エピソード2 クローンの攻撃』からは名前を出すことを止めたし、ついでにジャージャーも登場回数を減らした(『エピソード3 シスの復讐』じゃセリフすら無くなったけどね)。このファンの声によって取りやめたと言うのは今に始まったことではないのでそこまで問題視しないが、ルーカスとキャスリーン・ケネディ、J・J・エイブラムスの違いは「基本となる、軸となることを決めずに、確信を持たずにストーリーを何も考えずにその場しのぎで作っていた」だけのお話にすぎない。だから『エピソード7』『エピソード8』『エピソード9』が点でばらばらで向いている方向が違っていること言うわけだ。向いている方向が違うなら多数の否定派の意見が『エピソード8』に集中するのも無理は無い。生理的に好かないんだもん。と思うかもしれないが、それはそうかもしれない。だけど、必要以上に嫌う理由が果たして『エピソード8』にあるのか?とは思う。そもそも今では傑作とも言われている『エピソード5 帝国の逆襲』や『エピソード2 クローンの攻撃』も公開当初は今ほどの好意的な評価では無かったりする。

『エピソード5』もデビッド・プラウズのリーク疑惑初め、『エピソード4』が1話完結の明るい作品として終わったのに対して『エピソード5』は次の作品のための繋ぎという側面もあって暗い終わりになっている。だけど今は『エピソード6 ジェダイの帰還』という大団円があるから『エピソード5』もトリロジー中で最も盛り上がる作品として後年評価されているのはあるだろう。『エピソード2』もルーカスが女性層を狙って作ったということもあってバリバリの硬派な路線を期待した人からすると『エピソード1 ファントム・メナス』同様に手緩い期待外れ感は否めなかったが、『エピソード3』という振り切った作品があるからこそ前作はギャップとして機能しているのは分かるだろう。

『スター・ウォーズ』のトリロジー構成というのは時計の歯車のようなもので最後までつながることで作品として美しい形、機能美を見せる。それはちゃんと歯車の軸と歯車とのかみ合わせしっかりしているから成立すること。シークエル・トリロジーはファンの声で日和過ぎたからこんな仕上がりになったというのはこれで理解できるだろう。下手に『エピソード7』でファンに受ける接待作品を作ってウケちゃって、変にリブートに成功したと思っちゃったのかもしれない。だからこそ次の繋ぎの作品という試練に耐えられなかったわけだ。

『エピソード8』を単品の作品として見てみればそこまで不思議というか変じゃないと思う。さっきも言ったように必要なシーンをカットしたり、明らかに無駄なシーンを入れていたりするので編集が駄目だったのは明らかだが、隠遁生活を送る羽目になったルーク・スカイウォーカーの描写は適切だろう。よく考えてほしいのだけど、実の妹と親友の子供にフォースの才能があって自分が次のジェダイのリーダーとして鍛えようと思ったら大失敗。いわば親戚の子供を預かったらグレて殺人犯になったようなもんで、ルークからしたら想定していなかった事態。しかもついでに他の弟子は殺されるわまた銀河に内乱が起きてしまって、自分に直接関係が無いとはいえども大勢が命を落とす事態にまで陥った。これで自責の念に駆られないやつがいるかって話。じゃあ正々堂々カイロ・レンを始末しにクレイトまで行って戦えよってなるかもしれないけど、『エピソード9』の草案じゃないけどカイロ・レンにトラウマを与えつつ、父親のダース・ベイダー、アナキン・スカイウォーカー同様にカイロ・レンにライトサイドに戻ってくるよう説得をし続けるための作戦と思えば理解できるだろう。

ルークってそもそも厳しい環境では育ったものの、父親同様クソザコメンタルなのであれでウジウジして更にジェダイの古文書を焼くかどうかで躊躇する姿も「ルーク・スカイウォーカー」そのものだった。ルーク・スカイウォーカーはジェダイナイトとしてダース・ベイダーを倒し、ジェダイマスターになったけど、本質的に打たれ弱い、厳しい局面で思い悩み込んでしまい劣等感に襲われるという生来の性格は変わるもんじゃない。それがあのシーンに全て集約されていたわけだが、あそこにはなんの不自然もなかった。みんな妙に「ルーク・スカイウォーカー」を神格化し過ぎなんじゃねぇの?

 

 

逆に『マンダロリアン』のシーズン2やボバ・フェットでジェダイ然とするルークは背伸びしていてある種理解はできるけど、ここ最近の英雄ルーク・スカイウォーカーの神格化が行き過ぎて微妙だったよ。

 

 

この『エピソード7』という作品も考えものだ。元々キャスリーン・ケネディはそれまで存在した小説やゲームといったスピンオフ作品を全て無かったことにしたにも関わらず、いきなりジェイセン・ソロのような立ち位置でとダース・レヴァンのような見た目のキャラクターを引っ張り出してきたり、基地の名前を正史だったスピンオフゲーム作品『フォースアンリーシュド』の主人公スター・キラーの名前と同じにしたりと「ファンに分かってますよ」的な流用をしてしまっている。これについてはファンへの理解を示している素振りが余計駄作に拍車をかけたわけなんだけど、それはおいておいてこの既に捨てた設定を使い回すというのどこかで見たことがある。そうスカベンジャー、ガラクタ漁りのレイなんだ。

 

 

『スター・ウォーズ』の主人公というのは監督の境遇が反映されることが多い。ルーク・スカイウォーカー、アナキン・スカイウォーカーはジョージ・ルーカスでパドメ・アミダラは元奥さんのマーシャ・ルーカス。ダース・ベイダーはルーカスの父親で、シミ・スカイウォーカーというのはルーカスのお母さんだったりする。ジェダイ評議会はオリジナル・トリロジー制作時のハリウッドで、自分の才能を認められないハリウッドへの当時の鬱憤がプリクエル・トリロジーに込められていたわけだ。

 

 

じゃあレイは誰かというと他でもないJ・J・エイブラムス。さっきも書いたようにゴミを漁ってカイロ・レンや帝国軍(ジョージ・ルーカス不在のルーカスフィルム)亡き後の『スター・ウォーズ』の新時代を作るはずの人物だった。実際にレイは新時代を作るキッカケとしてパルパティーン元皇帝、ダース・シディアスやカイロ・レンといった悪玉の親分たちを排除したわけだが、それ以上に見逃しては行けないシーンがある。それは「第2デス・スターの探索」と「ルーク・スカイウォーカーとの出会い」そして「タトゥイーンへの訪問」だ。どういうことかというと、これらはファンの心理である「俳優に会いたい」というのと「聖地巡礼をしたい」というファンボーイを名乗っているJ・J・エイブラムスの欲望ををそのまま投影しているということ。

昨今、アニメのファンが聖地巡礼と称して『ガールズ&パンツァー』の舞台、大洗に行ったり、『ラブライブ!サンシャイン!!』だと沼津に行ったりしている。聖地巡礼の始祖となったのは『男はつらいよ』の車寅次郎の故郷で舞台にもなった東京・葛飾柴又への訪問なわけだけど、これは日本に限った話じゃなく海外でもある。『スター・ウォーズ』だとチュニジアに足を運んでルークの家を見るツアーがあったりする。第2デス・スターの訪問もレイからすると「おじいちゃんの思い出の地に行く」という聖地巡礼の延長の観光みたいなもので、『エピソード9』のラストではきっちりと「ルークの家」に聖地巡礼を果たしている。あんな世界一贅沢な聖地巡礼があってたまるかって言いたいけどね。

 

世界一贅沢な聖地巡礼

 

これをファン活動の一種である聖地巡礼と言わずして何というのだろうか?

ルーク・スカイウォーカーを探しに行くというのは熱烈ファン活動のそれで、「スター・ウォーズ コンベンション」なんかで俳優に会ってサインを貰ったり、記念写真を撮ったりするのと変わらない。あの『エピソード7』ラストの構図なんかまさにそうだ(ついでに言うとハン・ソロ、チューバッカとのファーストコンタクトも似たようなもんでしょ)。あれをすることでファンとのシンクロを図ったのは計算高いが、『エピソード9』で自身の投影であることを思う存分発揮してしまった。

 

 

ガラクタ漁りという部分はさっきも書いたように、J・J・エイブラムス自身が一度捨てたはずのわざわざ再利用するために持って来ていることから分かるだろう。しかし最後のダース・シディアス対レイで放たれた「ガラクタ漁りが余の力に勝てるわけがない」というのはずいぶんな皮肉のようにも思えるよな。このまま負けちまえば面白かったかもしれない。誰もが夢に描いた「パルパティーンは僕が倒すんだ」という妄想を現実にしたらこれ以上スター・ウォーズファンとして羨ましいものは無いかもしれない(?)。

ガラクタ漁りだからこそ『エピソード9』というのはなんとかして『エピソード8』でぶち壊されて粉々になった『スター・ウォーズ』という概念的な何かをかき集めようとして軌道修正しようとするからおかしくなったわけで、もとからしっかりとコリン・トレボロウにバトンを渡して信頼するという大きな心があれば成功したと思うし、『エピソード8』は再評価されたと思うんですよ。」

 

 

だから今でも僕は「『エピソード8』がまだシークエル・トリロジーの中でもマシだったし、そういう未来があったかもしれない」というわけ。

 

とまぁ長々書いたけど、シークエルトリロジーはそもそもレイがJ・J・エイブラムスという熱心なファンの投影だったということにもっと多くの人が気づけばこの作品の見方も変わるんじゃないですかね。もちろん擁護するわけじゃない。

 

最後に

今後ファンの意見という世界で最もあてにならないものなんか聞かずにガンガン新作を作るか、ジョージ・ルーカスに土下座してシークエルトリロジー(ミディクロリアン編)を作り直してもらいましょうや。

 

 

 

(C)2022 Lucasfilm Ltd.

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